2026年2号

《蔵書紹介》國分功一郎 著.『暇と退屈の倫理学』. 新潮文庫. 2022. 初出 2011.
《館長雑感》初めての失業と開館準備

《蔵書紹介》國分功一郎 著.『暇と退屈の倫理学』. 新潮文庫. 2022. 初出 2011.

 読み終えて、真綿で締められるような現代社会の息苦しさの正体を見たような思いです。

 そうだ。この社会は豊かではない。モノがあふれ快楽に満ちているのに、心が満たされることがない。常に満足することを求めて消費を強いられている。それは、カネという化け物が、退屈を忌み暇つぶしに余念のない人間に取り憑いて、人間の心を簒奪しながら自己増殖していく過程に、自分たちが取り込まれているからではないのか。

 本文中にこんなことが書かれています。ラッセルが『幸福論』の中で、熱意を持った生活を送ることを「幸福」と定義したことについて

もし外側から課題を与えられ、熱意をもてれば幸福になれるというのなら、何でもよいから熱意がもてる課題を適当に与えてやればよいということになるだろう。…たとえば、社会が停滞したら、戦争をすればいい。(p.73)

 人々を退屈させないための戦争などというナンセンスが屁理屈でも何でもないように思える昨今の情勢が恐ろしいです。一方でこんなことも書かれています。

私たちの生活は何のためやらよく分からない気晴らしに満ちている。テレビで芸能人がゲームをしているのを延々と眺めているのは気晴らしである。…モーツアルトやベートーベンを聴くのも気晴らしではないか。…わたしたちの生活は気晴らしに満ちている。(pp.268-269)

退屈と向き合うことを余儀なくされた人類は文明と呼ばれるものを発達させてきた、そうして、例えば芸術が生まれた。あるいは衣食住を工夫し、生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら、人々の心を豊かにする営みを考案してきた。(p.355)

 こうして退屈とうまく向き合うことが、人類の平和で安定した生存のための唯一の方法だとすれば、心が満たされない現代社会も、それが完成された世界といえるのかもしれません。「文庫版あとがき」にこんなことが書かれています。

二〇一一年以降、日本社会はどんどん悪い方向に向かっていった。…ネットにも書店にも路上にも憎悪の嵐が吹き荒れた。…だが、本書はそうした世相の中でも読み継がれた。…本書がこのような社会のなかを生き延び、読者を獲得してきたのは、自らの拠り所を憎悪ではなく楽しみとすることの大切さ、したがって勉強の効用なるものに少なからぬ読者の方々が共感してくださったからであろう。(pp.507-508)

 ポップなタイトルや装丁にも拘わらず、とても深遠な内容でした。こういう本は「消費」するのではなく、自分の中にちゃんと蓄積していきたいものです。

(2026・4・1 館長) 

《館長雑感》初めての失業と開館準備

 3月末で定年退職となるところ、貯まりに貯まった有給休暇を消化して、2月中旬に事実上の退職をすることとしました。3月まではお給料がもらえるのですが、生活としては事実上の失業者。ただそれではダラダラと過ごすばかりになってしまいます。そこで、いちおうはけじめをつけて、朝9時から夕方5時までは勤務時間とし、ダラダラするとしても庵で過ごすことにしました。

 退職すると、時間の流れだけでなく、物事の決め方や考え方の「作法」がガラリと変わってしまいます。勤めていたころは他者からやることと期日が与えられていました。だから、そこから逆算して、自分ができることをプロットしていくというようなことを無意識にしていました。予定調和的に適当なところに落とし込む。初めてやることでもある程度の先は見通せましたし、「ここまでなら出来る」という落としどころも掴むことができました。退職すると、その感覚がすっかり変わります。会社は時間を拘束する代わりに、自分の仕事の「意味」も与えてくれていました。それが十分でないという不満はありましたが、「会社の仕事」と言えば、たいていのことは周囲も納得させられましたし、自分もそれで納得してきました。いまは、今日一日を生きる意味のすべてを自分で作らなければならない。六十年間の人生の中で初めて経験する種類の戸惑いかもしれません。

 開業に向けて、あれもやりたい、これもやらなければ、とアイデアは次々に浮かんできます。でもいざそっちに進めようとすると「本当にそれでいいのか」と自分にブレーキがかかってしまうのです。例えば机の並べ方ひとつとっても、最初は教室のように並べようと考えていましたが、工務店さんの助言もあって中央に配置する案になり、さらに窓の改装後は「窓に向かって一列に座る」のが良いのではと思い至る…。窓に向かうということは庭を見ることになるので庭をどう整えるか、照明は、電源は、読書会をするときは――と、もうアイデアだけなら暴走状態なのです。しかし、それが暴走あるいは妄想だという自覚があって、思いついたことが本当の最終形なのか確信が持てない。あるいは、それをすることの意味を問い始めると答えが出てこない。勤めているときはそれでも期日があるので進めていかなければいけなかったのですが、いまは、こだわろうと思えばどこまでもこだわることができる。勤めていたころの考え方や決め方が通用しないことを痛感するのです。

 決めないといけないのは机だけではありません。キッチンのこと。食器のこと。その前にメニューのこと。書架のこと。本の並べ方。レジや会計のこと。靴箱や傘立てのこと。看板のこと。何から考えていいのかさえわかりません。この感覚を重圧と呼ぶのか、それとも「こだわりへの自由」と呼ぶのか。退職後の作法に慣れるのにはいま少し時間がかかりそうです。

 ともあれ、「決められない」と手をこまねいていても開館準備は進みません。当分はカフェ機能をあとまわしにして、図書館として機能させるための準備を優先して進めています。まずToDoListを作り、それに順序を付けて、さらにリストの項目ごとに予算も決めていく。こうして何か道筋ができたように思って心の安寧を得ることを、この号で紹介した『暇と退屈の倫理学』では、ハイデッガーの説として、「仕事とミッションの奴隷になること」と言っています。いえ別に退屈凌ぎのためにToDoListを作った訳ではないので、そこにネガティヴなものはないのですが、自由にできる時間を有意義なものにするのは、なかなか難しいことです。

(2026・4・1 館長)