《蔵書紹介》 青木海青子 著.『不完全な司書』 晶文社. 2023.
《館長雑感》 脱・コミュニケーション
《蔵書紹介》
青木海青子 著.『不完全な司書』 晶文社. 2023.

「本の庵」の蔵書を、私の感想文で紹介します。
この本は、奈良県東吉野村にある私設図書館「ルチャ・リブロ」の司書さんが書かれたエッセイです。私がルチャ・リブロを初めて訪れたときに、そこで買った本です。
そのころはまだ、「本の庵」という名前は考えていなかったのですが、いま考えているような、カフェ機能のある私設図書館を作ろうと思って、大阪にあるカフェ学校の見学に行きました。ルチャ・リブロを訪ねる前の日のことです。その帰りに、その卒業生が経営しているカフェを2箇所、見学しました(客として利用しました)。どちらも、厳しい競争環境の中で勝ち残っている成功例だと思いました。無意識に、客単価や来店者数を計算。アルバイトは何人いるのか。メニューの中に客単価を上げる工夫があるのか。そんなことを考えながら、それぞれ1時間ほど過ごしました。あのカフェ学校に行けば、それまでただの妄想だったことが実現する。そんなことを期待しながら、しかし、ひどく疲れてしまいました。いまから思えば、インプットされてくる情報が、完全に自分のキャパを越えていたのだと思います。翌日も、別のカフェを見に行くつもりでいたのですが、気持ちが激しくそれを拒んでいました。
そうだ。ルチャ・リブロに行こう。いつか行こうと思っていたけれど、今日がその日かも知れない。ホームページで調べると、たまたま開館日でした。場所もよく分からないままクルマを走らせて、2時間以上かけて辿り着きました。
ああ ここにあったのか
カフェではありませんから、「いらっしゃいませ」と声を掛けられることもないし、水もメニューも出てきません。けれど、自分はここにいてもいいんだ、と思える安心感。その場所で受け入れられているという確かさ。なんて居心地がいいのでしょう。そうだ。こういう場所を作りたかったんだ。仕事への意欲だとか、主体性だとか、コミュニケーション能力の有無だとか、要は「稼げるやつかどうか」という基準だけで値踏みされる世界から離れた世界を作りたい。カフェはそのための手段だったのに、いつの間にかカフェを作ることが目的になっていて、消化のわるい情報に胃がもたれて疲れていた。ルチャ・リブロはそんなことに気付かせてくれました。ルチャ・リブロのことをもっと知りたい。入口のすぐそばにこの本が平積みになっていました。「この本を買います」と言えば、あの司書さんの声が聞ける。そう思って買った本です。
ここまで書いて気付いたのですが、私の文章は感想文にも紹介文にもなっていないですね。
最後にちょっとだけ、この本について紹介します。著者の自伝的なところもあり、著者の目を通して私たちの住む世界を見ることができる本だと思います。きれいな水色のカヴァーの中には、優しい時間の流れと、激しい時間の流れが入り混じり、滔々と流れていく大河の流れのような著者の人生がありました。
(2025.2.1 館長)
《館長雑感》 脱・コミュニケーション
私にとってコミュニケーションというのは、どうも厄介なものです。人間は社会的な動物と言われますので、人間が生きていくうえでコミュニケーションはどうしても必要だと思うのです。けれど、いまの世の中、コミュニケーションがすべての問題を解決するような幻想があると思うのです。会社でも学校でも、コミュニケーション能力さえあれば何をやっても許され、コミュニケーション能力がなければ何をやっても報われない。そんな風潮の中で息苦しい思いもしてきました。いったいこの息苦しさの正体は何なのでしょう。
人から教えていただいたことですが、日本というコミュニティは欧米に比べてとてもハイ・コンテキストなコミュニティなんだそうです。情報を流す人とそれを受け取る人の間であらかじめ暗黙のうちに共有されている事柄が大きい。例えば一世を風靡したハズキルーペのCMは、商品の機能や頑丈さをアピールしているように見えて、実は出演している俳優さんのイメージを使って「この眼鏡はダサくない」というメッセージを伝えることに成功している。これは俳優さんのキャラクターが共有されているから成り立つコミュニケーションといえます。そういう共有知が少ない欧米では、商品の性能や価格を直接的に訴える、日本で言えばテレビショッピングのようなCMが主流なんだそうです。
そう言われてみれば、そういうことは学校のクラスや会社の職場といった小さなコミュニティでも言えることのように思えます。十のことを伝えるのに三ぐらいから説明して七まで説明したら「あとはよろしく」というだけで話が伝わる。濃密なコンテキストがあるからこそ、とても効率的なコミュニケーションができるわけです。
ただこういうコミュニケーションは、そのコンテキストを理解していない人や、理解はしているのだけれどそこに違和感を覚えるような人にとっては、とても居心地のわるいものになってしまいます。それでも、そのコミュニティの中で自分のポジションをキープするためには、常に空気を読み、その空気に自分を馴染ませていかなければならない。それが息苦しさの正体だったように思います。
かつて日本が「ジャパン アズ ナンバーワン」などと言われていたときのように、コミュニティが拡大していく局面では、これとは全く異なるコミュニケーション能力が必要だったと思います。例えば、言葉も習慣も異なる海外へ進出するような場面では、現地のパートナーと共有されているコンテキストは希薄です。強い主張を避けて空気を読むことよりも、相互に主張し合うことが必要とされるのではないでしょうか。なぜそんなことまで説明しないといけないのか、と思うことでさえ、言語化して伝えないことには意思疎通ができない。そういうコミュニケーションには、空気を読むコミュニケーションとは別のストレスがあったかも知れませんが、コンテキストの中に自分を埋めてしまうストレスに比べると、なんとなく明るいような気がします。
強い主張が疎まれ、空気を読むことを過度に強いられるようになるのは、コミュニティが外へ開かれるよりも、内側の結び付きが重視されるようになった結果なのかもしれません。その中で息苦しい思いをしているなら、一度コミュニケーションを断って自分と向き合う。そんな時間を持つことで、コンテキストの暗い呪縛から自分を救い出すことができるように思うのです。
(2026.8.1改 館長)

