2026年5号

《蔵書紹介》 平野啓一郎 作. 『本心』. 文春文庫. 2023. 初出 2019.
《館長雑感》 社会に役立つ人材の育成

《蔵書紹介》 平野啓一郎 作. 『本心』. 文春文庫. 2023. 初出 2019.

 この小説は、書かれたときから二十年後の近未来をリアルに描きながら、命の尊厳や人間の価値を読者に問い掛けます。この世にいない人をAIを使って再現するサービス、リアルアバターという仕事、自由死という制度。どれも現実に存在しているかのようなリアリティを持っています。そして物語に登場する人々は、これらのサービス、仕事、制度を、日常のものとして受け入れています。しかし、この物語の主人公は、自分の母親が自由死を選択することは受け入れられませんでした。この小説で「自由死」というのは、自分が死ぬ時期を自由に選べるという制度です。自分が望む人に見守られながら、致死薬を投入され、静かに人生を終える、厳かで安らかな死。息子に自由死を拒まれた母親は、ドローンの墜落事故に遭って死んでしまいます。死に際に居合わすことができなかった息子は、AIを使って母親を再現するサービスを利用し、母親が自由死を望んだ理由を知ろうとします。

僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは僕は死ぬという言明と一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして「生きる」という言葉が必要なのだろうか? 
(p.66)

 ヴァーチャルリアリティの技術を使って死者を蘇らせることができても、なお、人々は「生きる」ことの意味を問い続けています。

何のために存在しているのか? その理由を考えることで、確かに人は自分の人生を模索する。僕だってそれを考えている。けれども、この問いかけには、言葉を見つけられずに口籠ってしまう人を燻り出し、恥じ入らせ、生を断念するように促す人殺しの考えが忍び込んでいる。勝ち誇った傲慢な人間たちが、ただ自分たちにとって都合のいい、役に立つ人間を選別しようとする意図が紛れ込んでいる。 
(p.465)

 この作品を読んでいると、作者は、健常な人が自分の命を自由に断つことと、障害者や重篤な病人、余命いくばくもない高齢者の生きる権利とを、同じ地平で捉えているように思えます。安楽な死の対極には、病苦に直面する、安楽ではない生が、尊厳のある死の対極には尊厳のない生が想定されている。命の尊厳とは何なのか。尊厳のない生は尊厳のある生より劣っているのか。自由な死を認める制度の対極に、自由に生きる権利を奪う思想が潜んではいないのか。

 この作品で作者が提示する問いは重く、そして答えが出ないまま、その問いだけを残して物語が終わります。哲学書や思想書を読み終えたような読了感の残る一冊でした。

(2026.10.1 館長)

《館長雑感》社会に役立つ人材の育成

 「社会に役立つ人材の育成」をしている大学ってどんなふうに見られるのでしょう。

  • 当たり前じゃないか。社会に役立たない人材を育ててどうするんだ。
  • 社会に役立つ人材を育成しない大学なんて、まっさきになくなってしまえばいい。
  • 結構じゃないか。ちゃんと社会に役立つ知識や能力を身に付けていれば、きっといい会社に就職できるさ。

 いろんな見方があるかもしれませんが、私は基本的にこういうスローガンが嫌いです。「人々の役に立つ」でも「誰かの役に立つ」でもなく、なぜ「社会」なのか。「社会」という言葉の背景には、おカネを介して人々がつながっているという「構造」が読み取れます。「社会に役立つ」という言葉には「おカネを稼げる」という意味が忍び込んでいるように思うのです。

 私が大学生だったのは約四〇年前。高校の同級生で大学に進学するのは約三割。専門学校などに進学する人もいましたが、高校を卒業してすぐに就職する人もたくさんいました。いまのように、学校推薦だとかスポーツ推薦などといった制度で大学進学する人はあまりいませんでしたから、進学しようと思えば相当な受験勉強をしなければいけないのが当たり前。それなのに、大学に入学した途端に勉強する目的を見失い、怠惰な生活を送る学生も少なくはありませんでした。これは何も大学大衆化の帰結などといったことでもなさそうです。夏目漱石の小説に登場する「高等遊民」などを見れば、おそらく昔からそうだったことが推測できます。

 一方で大学には多くの公的資金が投入されています。年齢的には就業していてもおかしくないのに、大学生は親のおカネと公的資金で無益な日々を送っている。こうした現実に対して「モラトリアムだ」という批判の声が向けられていました。これに対抗するために大学が言い出したスローガンが「社会に役立つ人材の育成」だったのではないか。大学で学ぶことによって、より生産性の高い仕事ができ、社会に対してより多くの価値をもたらすことができる。そういう人材を育てているのだから、そこに公的資金を投入することには意義がある。そういうロジックが透けて見えます。

 いまの学生の中には、将来、自分が「社会に役立つ人材」になろうと真面目に考えている人がたくさんいるように思います。勉強だけでなく、「総合的な人格」の形成にも余念がありません。資格の取得にも励み、立派なガクチカ(就職活動のときに「学生時代に力を入れたことはなんですか」と聞かれて答えるためのネタ)づくりにも精を出す。「社会に役立つ人材」になるために自分の大切な大学4年間を捧げているような人も少なくないように思うのです。

 いまや大学進学率は四〇年前の約二倍。それだけ有為な人材が大勢輩出されるのですから、さぞ社会は良くなったと思うのですが、どうもその実感がありません。それもそのはず。現代社会の構造に何の疑問も挟まず、その構造の中に自らの才能を埋め込んで、それによってより多くを稼ぐ。それは前世紀の人材育成像から何も変わっていません。

 いま本当に大学がしなければいけないのは、社会に役立つ人材の育成ではなく、この閉塞した社会を変える人物の創出ではないかと思うのです。役に立つかどうかだけで人の価値が定まってしまうような社会の構造そのものを変えていく。そんな情報を発信し、その担い手を育てていくことを大学に期待するのは私だけでしょうか。

(2026・10・1 館長)